五十センチの神様 [言葉のレンズ]
五十センチの神様 田中美千代
見て、
ほら、あそこ
Mさんが指さした大きな樹の幹には
建物に反射した夕日が
幅五十センチほどの
光の帯をつくっていた
照り返しの陽があたっている幹のところには
神様がいるんですって
夕暮れの中で
そこだけほのかにオレンジ色に
染まっていた
ひと目を避けて
光の屈折したところに
ひっそり住んでいる五十センチの神様は
永遠に会えないけれど
本物のような気がする
田中美千代さんの詩集『風の外から押されて』の巻頭に置かれたこの詩には、なんとなくうなずいてしまうものがある。南向きの窓の多い部屋にいると、太陽が東から西へ移動するにつれて、光が室内の隅々を照らしながら西から東へと細やかに移動していくのに気がつく。どんな隅々の小さな部分も忘れずに満遍なく…という照らし方で、ああ、お日様の光って平等だなあ、なんて変な感心の仕方をする。
光のあたる部分に、そのたびちいさな神様の姿がふと見える…というのは素朴な民話のような感触だが、なぜか説得力があっていい詩だと思った。私の小さな住まいにも、ちいさなカミサマがほのかに出没しておられるのかもしれない。
見て、
ほら、あそこ
Mさんが指さした大きな樹の幹には
建物に反射した夕日が
幅五十センチほどの
光の帯をつくっていた
照り返しの陽があたっている幹のところには
神様がいるんですって
夕暮れの中で
そこだけほのかにオレンジ色に
染まっていた
ひと目を避けて
光の屈折したところに
ひっそり住んでいる五十センチの神様は
永遠に会えないけれど
本物のような気がする
田中美千代さんの詩集『風の外から押されて』の巻頭に置かれたこの詩には、なんとなくうなずいてしまうものがある。南向きの窓の多い部屋にいると、太陽が東から西へ移動するにつれて、光が室内の隅々を照らしながら西から東へと細やかに移動していくのに気がつく。どんな隅々の小さな部分も忘れずに満遍なく…という照らし方で、ああ、お日様の光って平等だなあ、なんて変な感心の仕方をする。
光のあたる部分に、そのたびちいさな神様の姿がふと見える…というのは素朴な民話のような感触だが、なぜか説得力があっていい詩だと思った。私の小さな住まいにも、ちいさなカミサマがほのかに出没しておられるのかもしれない。
近藤久也詩集「伝言」より [言葉のレンズ]
近藤久也さんの詩集「伝言」を読んで、いい詩をみつけたので紹介してしまおう。このコトバのレンズは何を発見させてくれるのか。
生垣のある家
ああまた
生垣のある家に住みたいな
地面に覚えたての字を指で書いたり
蟻たちが死んだミミズを担いでいくのをみていると
生垣の向こう側を見知らぬひとたちが
意味の解らないことばかり喋りながら
通り過ぎていく
ウバメガシの隙間から
ちらちらみえる足首は
知ることもない不思議な生き物
飼っているわけではないんだけど
ウバメガシのジャングルで
昼寝していた青大将の
ぞっとするほど
つめたい目
(この世界の秘密の一角を、こっそり透明な小さなレンズでのぞいたときのわくわく感。これはまさに子どもの目。それとも青大将の「つめたい目」かな。)
朝
馬が朝
川べりにやって来て
首をのばして水を飲んでいる
黒い馬
白い馬
茶の馬
灰色の馬
斑の馬
次から次と
朝霧の中
何頭も何頭も
誰かの使いのように
みえないところから
いそいそとおどり出てきて
並んで水を飲んでいる
後から来る馬が入れるくらい
隙間をあけてやり
一列に並んで飲んでいる
川面に視えなくなるくらい遠くまで
馬が映っている
後から後から馬が
やって来る
ひとはいない
(これも映像的だが、ファンタジックでもあり、コメントのないのがいいなと思う。私は今朝、すごく大きな樹のてっぺんあたりに,ゾウが何頭か見え隠れする夢を見たけれど、なぜかそのことを思い出す。この詩集にはほかにもおもしろい詩がいっぱいある。)
生垣のある家
ああまた
生垣のある家に住みたいな
地面に覚えたての字を指で書いたり
蟻たちが死んだミミズを担いでいくのをみていると
生垣の向こう側を見知らぬひとたちが
意味の解らないことばかり喋りながら
通り過ぎていく
ウバメガシの隙間から
ちらちらみえる足首は
知ることもない不思議な生き物
飼っているわけではないんだけど
ウバメガシのジャングルで
昼寝していた青大将の
ぞっとするほど
つめたい目
(この世界の秘密の一角を、こっそり透明な小さなレンズでのぞいたときのわくわく感。これはまさに子どもの目。それとも青大将の「つめたい目」かな。)
朝
馬が朝
川べりにやって来て
首をのばして水を飲んでいる
黒い馬
白い馬
茶の馬
灰色の馬
斑の馬
次から次と
朝霧の中
何頭も何頭も
誰かの使いのように
みえないところから
いそいそとおどり出てきて
並んで水を飲んでいる
後から来る馬が入れるくらい
隙間をあけてやり
一列に並んで飲んでいる
川面に視えなくなるくらい遠くまで
馬が映っている
後から後から馬が
やって来る
ひとはいない
(これも映像的だが、ファンタジックでもあり、コメントのないのがいいなと思う。私は今朝、すごく大きな樹のてっぺんあたりに,ゾウが何頭か見え隠れする夢を見たけれど、なぜかそのことを思い出す。この詩集にはほかにもおもしろい詩がいっぱいある。)
アフターダークより [言葉のレンズ]
おもしろいコトバや、印象に残るコトバをときどき載せていこうと思う。
そのままにして忘れてしまうのはもったいないし、「言葉というレンズ」で違った風景を見てみたいので。
今日は村上春樹の「アフターダーク」のなかの文章から。
ラブホテル「アルファヴィル」で、ヒロインのマリと従業員のコオロギが話し合っている場面から。
以下はコオロギの言葉です。
「それで思うんやけどね、人間いうのは、記憶を燃料にして生きていくものなんやないのかな。その記憶が現実的に大事なものかどうかなんて、生命の維持にとってはべつにどうでもええことみたい。ただの燃料やねん。新聞の広告ちらしやろうが、哲学書やろうが、エッチなグラビアやろうが、一万円札の束やろうが、火にくべるときはみんなただの紙切れでしょ。火の方は「おお、これはカントや」とか「これは読売新聞の夕刊か」とか「ええおっぱいしとるな」とか考えながら燃えてるわけやないよね。火にしてみたら、どれもただの紙切れに過ぎへん。それとおんなじや。大事な記憶も、それほど大事やない記憶も、ぜんぜん役に立たんような記憶も、みんな分け隔てなくただの燃料」
「それでね、もしそういう燃料が私になかったとしたら、もし記憶の引き出しみたいなものが自分の中になかったとしたら、私はとうの昔にぽきんと二つに折れてたと思う。どっかしみったれたところで、膝を抱えてのたれ死にしていたと思う。大事なことやらしょうもないことやら、いろんな記憶を時に応じてぼちぼち引き出していけるから、こんな悪夢みたいな生活を続けていても、それなりに生き続けていけるんよ。もうあかん、もうこれ以上やれんと思っても、なんとかそこを乗り越えていけるんよ。」
「そやから、マリちゃんもがんばって頭をひねって、いろんなことを思い出しなさい。……それがきっと大事な燃料になるから…以下略」
д
(記憶というものに、生命力というものに、こんな角度から光を与えられて、なんとなく納得する。ニヒリズムというわけでもなく。私はときどきカラスの鳴き声をききながら、人間のやってることの無意味さをふと示唆されたりする。それとどこか共通するかもしれない。)
そのままにして忘れてしまうのはもったいないし、「言葉というレンズ」で違った風景を見てみたいので。
今日は村上春樹の「アフターダーク」のなかの文章から。
ラブホテル「アルファヴィル」で、ヒロインのマリと従業員のコオロギが話し合っている場面から。
以下はコオロギの言葉です。
「それで思うんやけどね、人間いうのは、記憶を燃料にして生きていくものなんやないのかな。その記憶が現実的に大事なものかどうかなんて、生命の維持にとってはべつにどうでもええことみたい。ただの燃料やねん。新聞の広告ちらしやろうが、哲学書やろうが、エッチなグラビアやろうが、一万円札の束やろうが、火にくべるときはみんなただの紙切れでしょ。火の方は「おお、これはカントや」とか「これは読売新聞の夕刊か」とか「ええおっぱいしとるな」とか考えながら燃えてるわけやないよね。火にしてみたら、どれもただの紙切れに過ぎへん。それとおんなじや。大事な記憶も、それほど大事やない記憶も、ぜんぜん役に立たんような記憶も、みんな分け隔てなくただの燃料」
「それでね、もしそういう燃料が私になかったとしたら、もし記憶の引き出しみたいなものが自分の中になかったとしたら、私はとうの昔にぽきんと二つに折れてたと思う。どっかしみったれたところで、膝を抱えてのたれ死にしていたと思う。大事なことやらしょうもないことやら、いろんな記憶を時に応じてぼちぼち引き出していけるから、こんな悪夢みたいな生活を続けていても、それなりに生き続けていけるんよ。もうあかん、もうこれ以上やれんと思っても、なんとかそこを乗り越えていけるんよ。」
「そやから、マリちゃんもがんばって頭をひねって、いろんなことを思い出しなさい。……それがきっと大事な燃料になるから…以下略」
д
(記憶というものに、生命力というものに、こんな角度から光を与えられて、なんとなく納得する。ニヒリズムというわけでもなく。私はときどきカラスの鳴き声をききながら、人間のやってることの無意味さをふと示唆されたりする。それとどこか共通するかもしれない。)