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聴くということ(つづき) [言葉のレンズ]

 (こころのケアやカウンセリングにおいて、、慰めの言葉や助言よりも「こうなんですね」と(語るひとに)
繰り返して確認することが大きな意味をもつのは、おそらく、そういう語りののなかで、語るひと自身がみずからを整えるような「物語」を紡ぎ出していくことになるからである。)

 (語るひとは聴くひとを求めている。語ることで傷つくことがあろうとも、それでも自らを無防備なまま差し出そうとするのである。ケアにおいてそのリスクに応えうるのは、「関心をもたずにいられない」という聴く側のきもちであろう。)

 (とはいうものの、ほんとうに苦しいことについてひとは話しにくいものだ。…どのように語っても追いつかないという想いもあるだろう。だからそこから漏れてくる言葉は、ぷつっ、ぷつっと途切れている。だれに向けられるでもなく、ぽろっと零れるだけ.自分にとってもまだ言葉になっていないような言葉、ひとつひとつその感触を確かめながらでないと音にできない言葉だ。
 
 そういうかたちのなさに焦れて、聴くひとは聴きながらつい言葉を継ぎ足してしまう。ただ相手の言葉を受けとめるだけでなく「〜ということなんじゃないですか、だったら…」と解釈してしまう。こうして話す側のほうが、生まれかけた言葉を見失ってしまう。
 
じっくり聴くつもりが、じっさいには言葉を横取りしてしまうのだ。言葉が漏れてこないことに焦れて、待つことに耐えられなくなるのだ。
 
 ホスピタリティ、つまり歓待〈=他者を温かく迎えるということ)においては、聞き上手といった素質の問題ではなく、どのようにして他者に身を開いているかという、聴く者の態度や生き方が、つねに問われているようにおもう。)
                              
                              ※


 以上、思い当たることの多い内容ではないか。その人の身になって聴く…という態度は、自分をまず語ろうとすることとは対極にあるものだろう。折あらば相手の話のすきまを見つけて自分を語ろうとするのが、現代では一般的かもしれない。

 電話などでもこちらが話しているときに、それを無視して口を挟んで話をとったり、親切に?話を要約してくれようとするひともいて、それはたとえば混雑したデパートの売り場や地下道で、自分の行く手をつぎつぎと阻まれるストレスと似たものを与える。

 いま面している相手に自分を重ね、その心の動きに関心をもつ、かけがえのない共感能力は、著者もいうように「待つ」という心性に通じるものだろう。「待つ」ということは、ぼんやりした受身の姿勢でなく、集中力が求められるものだ。

 自然のなかの植物たちや、季節の大きな循環のなかで、「待つ」という態度を、訓練によって身につけなければならないのだ。電子機器にかこまれた、この都会の生活のなかで、息切れしかけている自分の呼吸を、もう一度静めるようにして。

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