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聴くということ(つづき) [言葉のレンズ]

 (こころのケアやカウンセリングにおいて、、慰めの言葉や助言よりも「こうなんですね」と(語るひとに)
繰り返して確認することが大きな意味をもつのは、おそらく、そういう語りののなかで、語るひと自身がみずからを整えるような「物語」を紡ぎ出していくことになるからである。)

 (語るひとは聴くひとを求めている。語ることで傷つくことがあろうとも、それでも自らを無防備なまま差し出そうとするのである。ケアにおいてそのリスクに応えうるのは、「関心をもたずにいられない」という聴く側のきもちであろう。)

 (とはいうものの、ほんとうに苦しいことについてひとは話しにくいものだ。…どのように語っても追いつかないという想いもあるだろう。だからそこから漏れてくる言葉は、ぷつっ、ぷつっと途切れている。だれに向けられるでもなく、ぽろっと零れるだけ.自分にとってもまだ言葉になっていないような言葉、ひとつひとつその感触を確かめながらでないと音にできない言葉だ。
 
 そういうかたちのなさに焦れて、聴くひとは聴きながらつい言葉を継ぎ足してしまう。ただ相手の言葉を受けとめるだけでなく「〜ということなんじゃないですか、だったら…」と解釈してしまう。こうして話す側のほうが、生まれかけた言葉を見失ってしまう。
 
じっくり聴くつもりが、じっさいには言葉を横取りしてしまうのだ。言葉が漏れてこないことに焦れて、待つことに耐えられなくなるのだ。
 
 ホスピタリティ、つまり歓待〈=他者を温かく迎えるということ)においては、聞き上手といった素質の問題ではなく、どのようにして他者に身を開いているかという、聴く者の態度や生き方が、つねに問われているようにおもう。)
                              
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 以上、思い当たることの多い内容ではないか。その人の身になって聴く…という態度は、自分をまず語ろうとすることとは対極にあるものだろう。折あらば相手の話のすきまを見つけて自分を語ろうとするのが、現代では一般的かもしれない。

 電話などでもこちらが話しているときに、それを無視して口を挟んで話をとったり、親切に?話を要約してくれようとするひともいて、それはたとえば混雑したデパートの売り場や地下道で、自分の行く手をつぎつぎと阻まれるストレスと似たものを与える。

 いま面している相手に自分を重ね、その心の動きに関心をもつ、かけがえのない共感能力は、著者もいうように「待つ」という心性に通じるものだろう。「待つ」ということは、ぼんやりした受身の姿勢でなく、集中力が求められるものだ。

 自然のなかの植物たちや、季節の大きな循環のなかで、「待つ」という態度を、訓練によって身につけなければならないのだ。電子機器にかこまれた、この都会の生活のなかで、息切れしかけている自分の呼吸を、もう一度静めるようにして。

聴くということ [言葉のレンズ]

鷲田清一「まなざしの記憶」(だれかの傍らで)という著書には、胸を打つ言葉がたくさんある。

私は、日ごろ《きく》という行為を大切にしたいと思っているのだが、個々人のもつ感覚の差やその不思議について、またひとの話を聴くという行為について、印象的な部分を引用したい。

 (聴くといえば、だれもがおそらく、耳で、と答えるだろう。聴覚は鼓膜に伝わる空気の振動を聴覚神経が大脳に伝えて……と、むかし学校で習った記憶がある。しかし、聴くという行為が、耳でする、ただ単に音響情報を受け取るという受動的な行為だとはとても信じられない。
  たとえば、数名が同じ部屋にいてもおなじ音を聴いているとはかぎらない。…BGMを聴いている人もいれば、…ワープロのキーを打つ音に神経を集中している人や、…鳥の鳴き声に耳を澄ましている人もいる。後者の人たちにはBGMの音はほとんどきこえていない。…聴くというのは、こちら側からの選択行為でもあるのだ。
 ひとの話を聴くというのも、…じつは選択的な行為なのである。相手が親しい人なら、きちんとその言葉を受け止めていないと「ちゃんと聴いているの?」「聴く気はあるの?」と問い詰めてくる。)

(聴かれる方からすれば、相手が自分に関心があるかどうかは、その聴き方ですぐ分る。こちらの聴き方しだいで、愛されていると感じたり、じぶんのことなんかこのひとにとってはどうでもいいのだと感じたりする。正確に、そして繊細に。だからこそ会話においてはしばしば、語るほうが先に傷つくのである。聴くということが選択的行為である限り、…相手が伝えたいことをそっくりそのまま受け取るというのは、なかなか難しいものだ。そしてそこに自分が出る。何を聴くかというところに。)

(聴くというのは、相手の言葉をきちんと受けとめることである。理解できるかできないかは,ふつう思われているほど重要ではない。話すほうが「わかってもらえた」「言葉を受けとめてもらえた」と感じることが重要である。なぜなら、自分について話すことは、自分を無防備にすることだからだ。逆に言えば、何でも話せるということは、相手に自分が、いまのままで十分に、そして(もしあなたがこうしてくれるなら、といった)条件付でなくそのまま受け容れられていると感じることだからである。「わかってもらえる」というのは、苦しみを「分かち合ってもらえる」ということでもあるのだ。ちなみに西洋の言葉で、シンパシーというのは「苦しみを分かちもつ」という意味だ。)  ーつづくー                           

キアゲハその後 [日々のキルト]

9月7日頃に生まれたキアゲハの幼虫のその後です。

実は、なんとか五齢のアオムシまで育ったのだから、これでうまく羽化して8匹のキアゲハが見られると皮算用?をしていたのですが、そうはうまくいきませんでした。

かれら8匹はたちまちイタリアンパセリの鉢を丸坊主にして、それより大きい隣のプランターも食べつくしました。それから一匹が昨日の夜明けに大脱走。(蛹になるためです)。もう食草もなくなったので、残りの7匹を飼育箱に移して、買ってきたハーブ売り場のイタリアンパセリを入れてやったのですが、ほとんど拒食症。(食草にはとても敏感です。)もちろん少しは食べたものもいますが、こわいほど食べません。屋外のプランターと環境が一変したせいもあるのでしょうか。それとも買ってきたハーブが消毒されていたり?

(昨日友人の0さんが、キアゲハの窮状を知り、なんと、お庭の最後の一株のイタリアンパセリを土付きで、わざわざ宅急便で送ってくださり、これはすごく嬉しかったです。有難う!)

ただそれが届く直前に、今朝飼育箱のなかであえなく4匹が死亡しているのを発見。箱のなかを蛹化直前ではげしくあるきまわっていた2匹は、脱出できずあきらめたのか、天井近くに固着化。

それでも、やっと一匹だけ生きていた青虫君を、取り出して戸外のイタリアンパセリの苗の鉢にのせてやって、様子を見ていたところ、午後になりちょっと目を放した隙に、この子も脱走。いくら捜しても、もう後の祭りでした!ちゃっかりと物陰にかくれてうまく蛹化してくれるといいのですが!まあ、自立してやってもらう方が気は楽ですが…。

と、いうわけで、今のところ目の前で羽化を期待できるのは2匹だけ。脱走中が2匹。そして死亡が4匹、という結果。(もっとちっちゃいうちに死んだのは別として。)まあ統計上の200匹に1匹強の生存というデータに比べれば、約10匹のうち2匹はましにしても、チョウたちの生存条件は過酷です。こんな都会のなかのバルコニーでは。あーあ、今年はキアゲハの一夏という感じで、得難い経験をしました。というより、まだ経験中です。

キアゲハ1ダース [日々のキルト]

 昨日7日、例のイタリアンパセリの鉢に、キアゲハの幼虫が孵化しているのを発見! これは9月1日にバルコニーに舞い戻り、自分の育った古巣の鉢に産卵した(と書いた)例のキアゲハの子どもたちだ。6日の深更からの関東直撃台風の通り過ぎたあと(7日の午後)に、鉢をのぞいたら、3ミリくらいのゴミみたいな茶色い虫がイタリアンパセリの茎のあちこちにくっついているではないか。嵐といっしょに生まれたんだ!と生命力の強さにびっくり。

 けれどまたこれからの食草の心配がつきまとう。どうやら1ダースはいるようだ。(そういえばあのときキアゲハは10回くらい産卵の行動をくりかえしていたっけ)。母親のサナギの殻がまだ残っている小さな鉢に1ダース!これはなんだかオモシロイ。

 これから脱皮を繰り返して、あの一人前の青虫にまで育つのが何匹いるか分らないが、すでに今朝見たら大きいのは5ミリくらい。でも小さいのは3ミリくらいとその差は大きい。せっかく里帰りして産み落とした子どもたち。せめて1匹や2匹は羽化まで育てばいいけれど…。なにしろ200匹に1匹の確率と知ってみると。

キアゲハの帰郷? [日々のキルト]

今日、不思議なことがあった。午後ふと見るとバルコニーをひらひら舞う蝶の影。いそいでのぞくとこれがまた一匹のキアゲハなのだ。その蝶は、10日ほど前、キアゲハが羽化した、イタリアンパセリの鉢のまわりや、私ののぞいているすぐ前や、そのあたりのいろんな鉢の上をひらひらと舞いあるき、セージの花の蜜を吸ったりして、10分くらいもバルコニーから離れず、とうとう例のイタリアンパセリの鉢にとまって、まだわずかにのこっている葉のあちこちに、卵を生みつけている。(そこにはこの間ぬぎすてられたサナギのからがそのままくっついている)。蝶はそれからもジョウロの柄にとまったり、朝顔の花を訪れたり、ククミスの葉にとまったり、網戸の傍を舞ったりとかして…なかなか立ち去らない。何度か空高く飛び去ってもまた舞い戻ってくる。合計15分くらい散歩?しただろうか。

 どうもあれは自分の生まれ故郷へ舞い戻ってきた、例のキアゲハみたいに思えてくる。あれは3兄弟でなく、姉妹だったのかもしれない…とか。蝶が生まれた場所に卵を生みに戻って来ることはあるのだろうか。まさか!と思ってネットで調べてみた。そしたら、そんな例が当たり前みたいに挙げられていて、おどろいた。
この前、羽化したのが今から9日前だったから、あの蝶の寿命としてもそろそろ終わる頃だし…。それにあの羽化した場所の近くばかりを、しきりに飛び回っていたし…。手を出したら指にとまりそうな感じだったし…と、蝶と心が通じたような気分で、いろいろ心を遊ばせているのはたのしい。固体識別ができなくて残念だが。

 それにしても、ネットで見ると、90個余りの卵からうまく成虫になる蝶は、統計的にはわずか0.6匹という数字が出ていた。自然の状態では、200個近くの卵からわずか一匹くらいというわけ?よほどついてなければ生き残れないわけだ。
 この夏はキアゲハに始まり、キアゲハに終わった感じ。だが今日の卵がまた孵化したらどうしよう?ほとんど食草ものこってないし。

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