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わすれられないおくりもの [絵本の頁]

このところなんだかんだと仕事に追われていて、ブログにもご無沙汰してしまった。
八月はこの国では死者たちを思い出す月かもしれない。戦争による死者たちばかりでなく…。八月はもうひとつの国との境目に近いこの国の季節なのだろうか。

私には子どもがいないけれども、自身が以前から絵本好きで、30代のころからあれこれ絵本を集めて楽しんでいた。特に史上に残る名作ばかりでなく、大人である自分の心にも(といってもかなり子どもじみた心!)、折々の風のように何かいい香りを運んできてくれた絵本のことを書いて見たいと思う。

今日は八月にちなんで、(スーザン・バーレイさく え)「わすれられないおくりもの」のことを…。
これは年老いたアナグマの死についてのお話です。
 
「アナグマはかしこくて、いつもみんなのたよりにされています。こまっている友だちは、だれでも、きっと助けてあげるのです。それにたいへん年をとっていて、知らないことはないというぐらい、もの知りでした。アナグマは自分の年だと、死ぬのが、そう遠くはないということも,知っていました。」

と、始まるこのお話。ひとり暮らしのアナグマは、ある日家に帰って,お月様におやすみをいって、夕ご飯のあと、暖炉のそばで手紙を書いてから、ゆり椅子の上で眠りにつく。そしてあの世への旅に出かけるのだ。その翌朝、「長いトンネルの むこうに行くよ さようなら アナグマより」という手紙が森の友だちに残されている。モグラも、キツネも、カエルも、ウサギの奥さんも、みんなみんな悲しくて悲しくて泣くばかり…。雪が地上をすっかりおおいかくして、長い冬に入っても、雪は心のなかの悲しみをおおいかくしてはくれない。みんな途方にくれてしまう。春が来て外に出られるようになると、みんな互いに行き来しては、アナグマの思い出を語り合うのだった。けれど……話しているうちに、やがてだれもが、アナグマからもらったちいさなおくりものに気がつくのだった。みんなにとって、それぞれが生きていく上で、たからものとなるようなちえや工夫を残してくれたことに気がつく。

「さいごの雪がきえたころ、アナグマが残してくれたもののゆたかさで、みんなの悲しみも、きえていました。アナグマのはなしが出るたびに、だれかがいつも,楽しい思い出を,話すことができるように,なったのです。」

毛布をぐっしょりぬらすほど泣いていたモグラが、あるあたたかい春の日に、丘にのぼり「ありがとう、アナグマさん。」と呼びかけたとき、モグラは、なんだか、そばでアナグマが、聞いてくれるような気がしたのだ。

草原の丘に立ってモグラが空に呼びかけている最後のシーンがすてきだ。思い出の中でみんなの心を楽しくしてくれる贈り物を、死者たちのだれもが残してくれているのだろう。そのことに気がつくのは生者たちの心だけ。ところで森の仲間たちのひとりひとりにアナグマはどんな贈り物を残したのか。まだ読んでいない人は、いつか読んでみては。

ところで私も年とともに、あの世に旅立つ知人や友人が多くなる。でも彼らのことを思い出すときは、いつも彼らは生き生きとした現在になって帰ってくる。たとえ何十年たっても。「青い鳥」のなかでメーテルリンクが言っているように、思い出すたびに死者たちは生きてここへやってきてくれるのかもしれない。そして彼らが残してくれた贈り物の多くが、私にとっても生きていく支えになってくれているのを感じる。その贈り物とは、たとえば「有難う、嬉しかった」とか、ある状況でうたってくれた歌の一節とか、単純な行為やひとつのコトバであることが多い。それは手触りのある贈り物のように、一つのシーンとともに、私の記憶に刻み付けられ、生きている時間をどこかで支えてくれている気がする。

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